木剣体操エクササイズ®協会設立趣意書

 

我が国は明治維新により武士支配が終焉を迎え、その後、明治政府は西欧化による近代化を推し進め、その過程で、それまでの武教育をはじめとした伝統文化は容赦なく切り捨てられた。

そんな風潮に逆らうかのように、当時の在野の武術家から武術を学校教育における正科に編入させようという動きがおこったが、それに対して明治17年に文部省は武術を正科とするに不適であるという答申をした。さらに日清戦争を境に、体育教育への要求は強まり、体育の近代化は進んでいった。

中島賢三は明治22年静岡県尋常師範学校を卒業した後、同25年から大正9年まで28年間にわたって静岡県師範学校附属小学校訓導の職にあたり、同校第7代主事であった津田信雄とともに同校の体育を担当した。

前述のような時代にあたってなお、中島は津田の支援のもと、同校で木剣体操法を創案実践した。中島が木剣体操法を創意するにあたり、一生涯にわたって継続可能な運動習慣の養成、という点に特に留意したとされる(中村民雄 明治期における武術体操法について(その三) 武道学研究 1987; 11-2: 93-94)。

明治45年学習院院長だった乃木大将が同校を視察し学習院でも採用され、大正5年には静岡県からの推奨も受けた木剣体操法であったが、大正9年に中島が引退したあとは、次第に忘れ去られていった。

そんな木剣体操法が平成の現代に復活したのは東日本大震災の傷未だ癒えぬ2014年、静岡から遠く離れ、奇しくも地震から立ち直ろうとする東北の地、山形県であった。

当協会の顧問で木剣体操エクササイズ®認定教士である居合道教士七段鈴木亨は中島の木剣体操法をもとに、同じく明治期の体育教師小澤卯之助の「武術体操法」および橋本新太郎の「撃剣体操法」をも俯瞰的に研究し、歴史遺物としてではなく、現代日本にこそ必要な体操として、木剣体操を現代に復活させた。

本協会は鈴木が復活させた木剣体操の基づく木剣体操エクササイズ®の普及による、中島が目指した「生涯にわたる継続的運動習慣」の定着と、そこから得られる健康寿命の延長を目指すものである。

 

平成29年8月

木剣体操エクササイズ®協会設立発起人

岩坂潤二